写真の価値

写真の価値について考えてみた。

絵画や、書 と違って、写真のプリントはいまいち市場価値が低いようだ。

それは、きっと、何枚でも複写できるからかもしれない。絵画や書はひとつだけだ。

それに、特に絵画は造るのに時間がかかる。写真は一瞬でできる。

そんな理由で、それだけの理由で写真の価値は低い。

少し考えた。それならば、写真を撮った後、一枚だけプリントし、その後、データなどはすべて消す。

これはいい方法だ。

そうすれば、一枚しかないということで価値は上がるかもしれない。

でも、やはり、それも違うと思う。


写真は何枚でも複写できるから写真なのだと思う。

 

そして、私は、写真というものに価値は不要だと思う。

価値があるとすれば、その写真の中に写っている「モノ」「人」かもしれない。

 

だから、写真を買うということは、その場所に行って撮った手間賃と印刷に必要な経費と「被写体」に対する出演料を払うことなのかもしれない。

 

こんなこと書くとプロの写真家に怒られるかもしれないが、今は、そんなものだと思っている。

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デジタルデータ

最近のカメラで写真を撮ると、後からデータを見ることができる。

シャッター速度とか、絞りとか・・・

便利になったけど、それで いい写真が撮れる様になったかっていうと逆だと思う。

フィルムの頃は、手探りで撮っていた。そして、たぶんくれくらいってところでタマタマヒット作ができることもあった。

デジタルの場合は、ある程度の数値が頭に入っている状態で撮るようになってしまった。そのため、撮る写真も、数値のようなデータのような、はっきり境目のあるような(そんな気分の・・)写真ばかりだ。

1 と 0 の間には、何もない。そして、1 と 0 以外には何もない。そんなデジタルだからこそ、撮る人くらいは、テキトーじゃないといけないような気がしている。

ま、その点、私は記憶能力がほとんど無くなってきたので、これからは、きっと「こんな感じ??」って撮れるようになると思う。そして、無駄打ちが多いが、ラッキーヒットもたまには出るような、そんな写真が撮れるような気がする。

どうせ、見る人は、人間なので、それくらいの方がいいのかもしれない。ロボットには見せられないような写真を撮りたいと思う。

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風の本体

以前、風のこと書いたけど、ちょっと上っ面のきれいごとのような事を書いたようだ。

今日は、風が強かった。風と一緒に「雨」も「ミゾレ」も舞っていた。

雨が舞っているということは、風も同じように舞っているのか、、、それとも、風が雨を舞わせているだけで、風は本当は動いていないのかもしれない。

普通の風のようなものは、風が空気を動かせているだけで、風本体は、いったい何をしているのだろう。

そんなことを考えてしまった、風の強い一日でした。

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近況報告

ほそぼそと始めたブログであるが、もう一ヶ月以上経過した。

実は、外部からはTwitterからリンクを貼っている。これは、昨年の暮れまでラーメンのブログを書いていたときにお世話になった人に、とりあえず生きているよって、消息を伝えたいなぁって気持ちで・・

最近あまりラーメンを食べなくなったのは、別に嫌いになったわけでもなく、どこかのお店で問題を起こしたわけでもなく、ただたんに、お金がないだけ・・

今年から、お小遣いが極端に減り、燃料代(車のガソリンと私のビール)を引いたら、ほとんど残らない生活になってしまった。

定年するということはこういうものだと実感した。ま、田舎にいるので「お米」や「野菜」には困らないので、生きてはいけるのではあるが・・・

で、先日久しぶりに、よく通っていたラーメン屋さんに行った。奈良新ノ口の「と市」さんである。

オープン当初は、私がラーメン写真を撮り始めたころだったので、三脚を立てたり、フラッシャをたいたりといろいろ試させてもらって迷惑をかけた(お客が一人も居なかったということもあるけど・・・、ちなみに今は毎日30人以上の行列店なんですが・・)

そのお店に、今回は「丸腰」で行った。なぜか、気持ちよかった。しっかり最後のスープ一滴まで味わうことができた。

きっと、何故かわからない、写真を撮ることに「後ろめたさ」を感じていたのかもしれない。

今回は、まったくそれが無かった。スープを飲み干したあとに交わした、店主さんとのいつもの会話も、店主とお客という対等の関係になったかのように、普通に会話できたような気がした。

別に、食品の写真を撮ることを否定しているわけではないけど、私自身、今まで、そういう写真を撮ることにたいして、何か「思惑」というものがあり、それが「後ろめたさ」を作り出していたようだ。

と市のラーメンは本当に美味かった。そして、最近お会いしていない、女将さんにもまた会いたいなぁって思いながら、お店を後にした。

そういえば、四日市の修行好きな店主のいるお店にも、また行きたいと思っているが、ちょっと資金不足のため、定期券の使える大阪行きの近鉄電車しか乗ることができていない。

毎日、何か落ちていないかと、下見て歩きながら彷徨いつづけているという近況報告でした!!

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恩師

子供の頃、一度だけ嬉しかったことがある。

中学2年の時に、一年間だけ「美術」の担当になった先生が居た。その先生は変わっていた。

一年間、課題はなかった。何も教えてくれなかった。ただ一言「好きなモノを好きなような描け」って言っていた。

そんな教師は初めてだったので、嬉しくなって、ものすごく変なものを描いてやった。

たまたま、その頃、公害問題が騒がれていた。田子の浦という海がヘドロで汚されているというニュースを見て、その海をカラフルに、その頃で言う、サイケデリックな色彩で、描いてみた。

そうしたら、その教師は、「もっと、思い切って、描け」って言った。そして、半年間、その絵だけを描き続けた。納得するまで、何度も何度も描き足した。

そしたら、あるとき、その教師は、その絵を持っていってしまった。「○×に応募しといたからな」って言っていた。

忘れた頃、その絵が大きな賞を取ったということを聞いた。両親は喜んでいたが、私は別に何も感じなかった。それよりも、一年間、好きなことをやらせてくれた、そのことが嬉しかった。

先日、その教師の個展が名古屋でひらかれたと聞いた。ローカル番組で、その特集も見た。まだ、あの人は、訳のわからない彫刻を造っていた。そして、歳はとっていたが、その頃と同じような声で、嬉しそうに芸術を語っていた。

最近私の撮っている写真は、その頃描いた「絵」に似ているような気がした。そして、その先生「山田彊一(やまきょう)」の名前を思い出した。

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今日は寒かった。木枯らしも吹いていた。その合間に、小さな「虹」がかかっていた。

虹には境目がなかった。よーく見たけど、色と色との境目は無かった。

それなのに虹は7色といわれている。

誰が決めたのか、どこからどこまでが、「藍色」なのか「青」と「緑」の間には色はないのか・・

など、突っ込んでもしょうがないけど、どうも、あの虹の7色の決め方が好きではない。

オリンピックの選手選考や日本の3大○×などの選考などと同じくらいいいかげんなモノだと思う。

絶対に「虹」は7色なんかではない。もし、あるとすれば、それは「虹色」1色か、あるいは「たくさんの色」でいいのではないか、って、虹の出ている短い時間に考えた。暇な私である・・

そして、虹の外側、つまり「赤」と「紫」の外は何色なんだろう。「にじ」の外だから「いちじ」と「さんじ」とボケた状態のままで今日は考えるのはやめて、ビール飲んで寝よう!!

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焦点距離

先日まで、「形」とか「色」とかは、人それぞれ違う見え方がするんではないかってことでいろいろ考えていたが、昨日の話にいただいたコメントで、また一つ「ピント=焦点」も違うのではないかって思った。

あるいは、距離感という言葉がいいのかもしれない。

つまり、正面からモノを見るとき、人は、どこを見ているのか??

相手の顔を見るとき、鼻先なのか、目の奥なのか、あるいは 心の中なのか・・(ちょっと飛躍しすぎたが)

また、花を見るとき、花びらを見るのか、花全体を見るのか、その花を見ている人(自分)を見るのか??

どちらにしても、カメラでレンズを向けたときのピントの位置は違うと思う。そして、見る人はもっと違うと思う。でも、でも、でも・・・、モニター、用紙に展開された画像は、一枚の平面なのである。

つまり、ピントは一つだけ。 だから、撮った人と、見る人とでは、絶対にピントが合うはずが無いのだ!!!

って、勝手に気づいた。これは素晴らしい発見だと思う。

だから、どうすればいいのかは後回しにするけど・・・

撮るときは三次元、見るときは二次元。 いや、撮ってしまった人には過去という時間もあるから、四次元x二次元。これでは、まったく違う次元で勝負しているようなものだ。

だから、 今のところ 結局は 自分の好きなものを撮っていればいいのだっ て ところで今日は締めておこう!!

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青い色

私は色盲である。赤緑色盲というやつで、一つ一つの色は認識できるが、赤と緑が重なると区別ができなくなる。

ま、そんなことで、小学校に入学した瞬間から、「異常者」という肩書きを頂き、暗い人生を送ってきた。

高学年になったとき(中学だったのか忘れた・・)、再度詳しい色盲検査をした。そのときもやっぱり他人が読める文字が、色の付いた水玉模様の中からは浮かび上がってこなかったが、そのときの担当の先生が、もう一冊の別の試験用紙を出してくれた。

そうしたら、文字や数字がいっぱい浮かんできて、嬉しくなって答えた。・・ でも、それは見えてはいけない「字」だったようだ。それで、はっきりと「色盲」という刻印が押された。

今だったら、人が見えない字が読めるんだから、トランプや麻雀パイの裏に自分だけが読める暗号を書いて・・などと考えて喜ぶと思うが、そのときは、もう人間ではないと宣告されたような気がして 落ち込んだ・・

 

で、いろいろあって、40歳くらいになって、一つ乗り越えた。

それは、色の区別がつきにくいけれど、逆にモノの明度、つまり細かいトーンが、人よりも感度よく見えている事だと思うことにした。そして、モノクロの写真を撮った。

でも、それは 逃げていることだと気づいた。

で、60歳になった記念に、去年から、また生まれ変わったような気分になって、カラーをやってみることにした。もう、色盲というコトで正常な普通人と区別しようとする「教師」も居ない、還暦という自由を得た私の新しい出発として・・・。

 

赤と緑が並ぶとよくわからない。しかし、青い色は、どんな色でも細かく認識ができる。一度見た青は忘れない。

マツダデミオの青は大好きだが、ホンダのフィットとトヨタのアクアの青は気持ち悪くて目をそむける・・・。

で、いろいろ水の写真を撮っているのだが、やはりモニターでは細かい色の違いが表現できない。それで、高性能のプリンターと高い顔料のインクを使って、少しずつ自分でプリントしている。

気に入ったプリントができることもある。その中に浮き出ている「青」の細かいトーンの違い、深さと淡さと、透明感と濁り具合と、コクとキレ。それらを見ているのが嬉しい。

そして、その色の違いに気づく「正常な普通の人」はきっと居ないだろうなぁと思うと、ちょっと寂しいが、逆に、子供の頃の復讐のような気持ちで、「この色がわからない普通の人たちは、可愛そうだなぁ」って思いながら、水の写真を見て、毎日を過ごしている。

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無駄な時間

今日も一日、ダラダラと無駄な時間を過ごしたようだ・・

でも、「無駄な時間」ってどんな時間なんだろう。

もしかしたら、生まれから今までの99.99999%は無駄な時間だったのかもしれない。

だから、今日一日の無駄さはそれほどでもないかもしれない。

そういう意味でいうならば、今日も楽しい一日であったような 気もする・・

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