意識

写真は、モノの「影と形」を撮るものだと思っていたことがある。

影というのは、光があるから影ができるということで、光を撮るという人もいる。

じゃ、形というモノの反対側にあるのは、何だろう・・・

「幻」?、「軌跡」?、「残り香」?・・・ いろいろ考えたけど、考えても結論はでないけど、今、思うのは、「意識」だと思う。

光があるから、影ができる。ということは、形というのは、その人が、あるものを「意識」してはじめて、そのような形に認識するのではないか・・

だから、意識しなければ「形」、いや、「モノ」、そのものが存在しないのかもしれない。

ということは、撮る人が「A」と意識して撮ったとしても、見る人の意識の中に「A」はなく、「B」しかない場合は、それは見るべき価値のないものか、あるいは、無理やり「B」と意識してもらえるのか、どちらにせよ、AもBも、結局は、その二人だけの意識・・・

撮る人が、モノを意識すること自体間違っているのではないのか、撮る人は「モノ」を意識しては(それを無理やり写真に載せては)いけないのではないのか・・(料理人が、これは○×のような風味がして美味しいですよって出すようなものだ)

という、逆説的仮想が、今の私を支えているような気がする。

しかし、まだまだ撮る写真には「思惑」という意識が便秘のように詰まっているようだ。

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